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2009-09-08
「白」(『Agora』2008年10月号、41頁)
 昨年、明治生まれの私の母が白寿を迎え、春に祝いをした。しかし、その後、体調を崩し、以来養護老人ホームに入っている。8月に誕生日があって、 今度は満で99歳となったので訪ねていった。
 私は、5人兄弟の末っ子で、母に甘ったれていたのだが、結婚をして家を出てからは、4人の子育てや仕事が忙しく、あまり顔を見せることをしなかった。兄や姉たちは、よく訪ねていっていたのだから、私の無愛想が元だが、 自分の生活が一段落して、母の顔をゆっくり見られるようになったら、既に80歳を越えていて、会っても話すことが無くなっていた、というのが実感で ある。
 そんな頃、娘の洗礼式に母が教会に来てくれた。母は私に声をかけてきて 「困ったよ、90になるよ」と言う。怪訝に次の言葉を待っていると、「そろそろ、これまでの人生を考えなければならないんだけど、まとまらないんだ」との主旨を述べる。90にもなったら、「よく生きてこられた」くらいのことしかないのだ、と、無意識に侮っていた私は、虚を突かれた。
 母は、大正から昭和にかけて青春を送った。自分から東京に働きに出て、貯めたお金を学費に、新渡戸稲造が校長だった女子経済専門学校に学んだ。先日、関川夏央著『白樺たちの大正』を読んで、大正の後半からの女子教育制度の拡充で、「野心的な大正の娘」が育っていったことを知り、母がそうした世代の生き残りであることに気付いた。社会運動で出会った父と結婚してから、これといった仕事はしてなかったが、野心は仕事のかたちを取らなくても、生き方に現れよう。小さい頃、わが家に、他の家庭とは違った自由を感じることは多かった。
 さて、病院に行くと母は元気で、介護の方によれば、「歩けるので助かる」、との こと。実際は、起き上がらせたりする時、 足を突っ張るくらいなのだが、介護が楽なのだそうだ。なるほど、人間は足だな、などと心の中で呟きながら、それでも、談話室で車いすの母と向かい合うと、これといって話すことがない。
 ところが一緒に行った子どもたちの方が打ち解けていて、祖母である母に自分のやっている仕事を説明したりする。彼らが、妻が載っている雑誌などを取り出そう とするのを、ややこしくなるからと私が制そうとするも、あえて解説したりする。 母も、「あとで見るからその雑誌置いていって」、とせがむ。前述の関川氏の本には、寝たきりの志賀直哉が、武者小路実篤から贈られた、二人の友情を詩にした色紙を「飽かず眺めていた」とあったが、こうしたことか、と思ったりした。
 結局何も語ることなく、そろそろ暇しようと、母を部屋まで送り、介護の方の手でベッドに横になるのを見ていた時、「寝ているだけで何もないと思うかも知れないけど」と、私に向かって母が語りかけた。「でも不思議に飽きないんだよ」と。
 その生は次第に白く透明になっているが、「野心」はまだあるのだ。私は不明を恥じながら、ありがたかった。